いぬちゃんメモ・メニュ−

◆ いぬちゃんのできるまで ◆ 
(かなり長いよ!)

加藤賢崇の自伝的長編エッセイ

コレは1994年にヤマハ音楽出版より発売された「加藤賢崇作品集・いぬちゃん・1985〜1993」に掲載された後書きに加筆訂正したものです。どのようにしていぬちゃんが生まれていったか、その果てしなく長いみちのりを「簡単に」ご紹介しております。よかったらネットサ−フの合間にお読みください。


その昔、ぼくは神童でした。
いや、マジに。 赤ちゃん時代の写真
幼少のみぎり、世間では貸本屋全盛期で、小学校上がる前から保育園にも行かず、銭湯の帰りにまんが雑誌を借りては、毎日昼も夜も読みふけり、片っ端からまんがを模写する日々を送っていたぼく。
「ぼくはまんが家になりまちゅ」と宣言し、秋田書店の「まんが入門」石森章太郎先生の「マンガ家入門」藤子不二雄先生の「まんが道」も読みましたよ。4つ、5つの頃に。
当時はルビのついた本が多かったおかげで漢字もけっこう憶えてスラスラ読めるようになり、両親やら近所の人々らも「この子は天才、いや神童に違いない。テレビの『八木治郎の万国ビックリショー』に出して、中国の天才少年キム・ウンヨンくんと戦わせよう」と騒いでいたのです。しかし日本中で話題になってたキムくんは4つで方程式解いてたからな。勝てるわけなかったけど。 ところがその頃、ぼくはよくウチの向かいにある空き地で近所の悪ガキどもとイチヂクの木やビワの木に昇って遊んでのですが、ある日ひとりのどうしようもないガキに、真下に流れていた黒々としたドブ川に突き落とされてしまったのです。
コールタール混じりの水を腹いっぱい飲み込んだまま失神し、プカリプカリと浮いてる半死のぼくを、なんと町でも評判の不良中学生が通りかかって、すぐさま飛びこんで救助してくれました。コレは地元新聞にも載るニュースになり、その中学生は警察から表彰されて真面目になって、逆に我が家にお礼に来たそうですよ。いやあもう、ぼくのほうこそ、お会いすることはできなかったのですが、その節はありがとうございました。命、大切にしてます。10数年後、ぼくを落としたほうのガキは不良高校生となって川のほとりでシンナー中毒で死ぬ、という冗談みたいな後日談もありますが。
とはいえ、ぼくのほうもドブの水たらふく飲んで頭悪くなったのか、憑き物が落ちるようにその天才ぶりを失ってゆき、タダの鼻たれになって現在に至る。 小学校に上がる半年前に「まったく幼稚園も保育園も行ったことないのはマズイのでは」ということで、近所にできたばかりの保育園にあわてて通うことになったんですが、ここは隣に母子寮があって、園児の大半がソコの子だったので「お前、父ちゃんいるのか」とイジメられました。
小学校はウチの町内の学校より隣町の学校のほうが距離的に近かったので、そっちに通ってたら「となりの町から来た」と言ってイジメられていました。落ち込むぼくをハゲますように、ウチに白いいぬの小さな縫いぐるみが来ました。ころちゃんと名づけて、毎日どこに行くにも抱きしめて舐めるように、というか舐めてカワイがっていたんです。もう毛がふやけてボロボロになるほどにまで。 ころちゃんの絵も一生懸命描いておりましたが、2年生に上がるころ、ちょうど、もうこれ以上イジルと壊れる、というくらい汚れきって、さすがに描く気も無くなったころに、ある日公園で見知らぬオヤジに「この犬いらんか」と言われ、それはまあ縫いぐるみにウリ二つの白い仔犬を手渡されたのです。
ただ余った仔犬を捨てられず始末に困ってただけなんでしょうが、ウレシかったですね。大喜びでウチに連れて帰ったところ、我が家もそれまで6帖1間の長屋のような部屋に一家5人が住んでたんですが、その年から拡張して横の部屋も借りて一挙2倍になったばかりだったんで、即座に飼うことを許され、本物のころちゃんが家族の一員となりました。しかも首輪もつけず、放し飼いで。まだ、野犬狩りもキビシくなく、町角をいぬが走り回るいい時代でした。いや、もちろん野犬の被害にあわれた方には申し訳ないのですが。
そしてぼくは生きたころちゃんもベロベロと毎日舐め回し、それが何年にも及んだため、成犬となったときには鼻とかすっかりフヤケきって、犬にとって最高の能力であるはずの嗅覚の効かない、犬失格ないぬになってましたが。まあ、動く絵のモデルができたので、ぼくはさらに絵の修業にはげみます。3年生になると、そろそろちゃんとしたストーリーまんがも描きたくなってきました。自分を主人公に見立て、遠足でガケから落ちる友人を救ったりする大活劇「がんばれ!けんそーくん」シリーズに着手するのですが、わき役キャラとして、ころちゃんも登場させることにしました。
そして、ここがぼくの生来のおかしな資質なんですが、小さい時からまんがとともに怪獣映画やプロレスが大好きで育ったせいか、現実がナマナマしすぎる表現への反発心というものに、すでに目覚めていて「どこかにウソがないといけない」虚構と現実の皮膜を突くようなもの、なんてムツカシイ言葉はまだ知りませんが、感覚的にはそのようなことをバクゼンと考えていた。
そこで現実のころちゃんをモデルとしながらも、あくまで抽象的に<いぬちゃん>と呼ぶことで匿名性を与え、すべての犬の代表的なニュアンスまで持たせようとした。絵のほうも、見て描いたころちゃんの姿に、当時、日本で最初のブームを起こしつつあった、アメリカ漫画最高の人気いぬキャラ<スヌーピー>ぽい味も加えることにした。なんてマーケティング戦略の優れたキャラ作り。
だから最初期のいぬちゃんは今より鼻長で足先が割れてます。その頃の絵をちゃんと取ってあれば、手塚治虫先生のように自伝に幼少期のスケッチを入れたりできるのに。でも、ぼくって過去を捨てながら生きる人間だから、恥ずかしくなって全部捨てちゃうのね。
話は戻って、4年生の頃、故田川水泡先生作の戦前日本漫画最高の人気いぬキャラ「のらくろ」の戦後発の完全復刻版が出まして、これにも影響受けました。けんそーくん中心だったヒーローまんがから、チャーリー・ブラウン風を経て、いぬちゃんを主人公にし、いぬちゃんの成長物語を描くようになっていったのです。現実の、ころちゃんのほうも大きくなってましたし。
かけっこの早さを認められ、体育も得意になりイジメにもあわなくなった5年生くらいには、ほぼ現在のいぬちゃんの原形ができあがっていました。手足もちぢんで、アタマがクラゲ状になった。友人達と作る手作り同人誌には、アストロ球団ぽいスポ根ものも描いてましたが、竹内くんという絵の達者な同級生に出会ってからは、絵の才能とは好きずきとはまったく離れた部分でいかんともしがたいものだと気づき、劇画調やアニメ調の絵はあきらめ、いぬちゃんだけに可能性を見いだし描き続けていました。
中学は同じ町内の中学に行きましたが「隣町の小学校から来た」と再びイジメられる日々。そんな中、ホームルームで将来の目標を発表する時間にも「まんが家になります」と宣言。ならば、どんな上手な絵を描くのかと覗きこまれれば、丸に線を引っ張っただけの記号のようなモノを犬だと説明する。バカにされ笑われても、いつの日か、このキャラに命を吹き込んで見せると誓うぼくであった。 鉛筆描きからペン描きに移行させていく最初は、いぬちゃんの輪郭に欠かせない丸みのある線が描けずに苦労したけど、忙しい水泳部(なぜか入ってた)の練習の合間を縫って3年かけて、なんとかモノにした。
小学校はおろか中学校を卒業してもいぬちゃんだけは卒業できなかった。イジメにも負けず、いい友達もいたけど、なんだか教師にも学校というものの存在自体にも不信感の芽生えていたぼく。成人になった今でも「学校で勉強になったものはない。社会に出て必要なことはほとんど親兄弟から習った」と自信を持って言えるぼくですから。志望の高校も決まらぬまま成績は落ちていたのですが、とりあえず試験だけは受けろ、と言われ兄の出た工業高校を受け、いちばん倍率の低い学部に入学した。でも心はもう東京に飛んでいたんですね。ほんとは中学出たら、すぐにまんが家目指して上京したかったのに。
で思い切って、両親に「東京に出してくれ」と懇願した。このときの「コレからの世の中、学校出たって何の役にも立たない」と説得し続ける、ぼくの弁論は実に論理的に構築されたもので我ながら感心しました。まあ両親ともに青春時代に戦争で何もかも失った世代であり(この両親の戦争体験もいずれ本にしたいものですが)、どうせ学歴や資産など爆弾一発でオジャンだし、という刹那的な人生観を持った夫婦。しかも兄がまた貧乏一家を脱出してステイタスを身に付けたい、とプロゴルファーを目指すなどという、およそカタギには遠い道を歩みはじめたこともあり(そして実際にプロになったけど)、ぼくにも「若いうちに好きなことやんなさい」と東京行きを勧めてくれるようになったのだ。ぼくは1学期も終わらぬうちに中退届けを出し、ウチにひきこもってまんがを描いた。東京にいた唯一の親戚でNHKで働いていたイトコがいて都立大学のほうに部屋を捜してくれ、その夏、15歳で上京。でも最初は全然働かず、年ごまかしてバイトの申し込みにいってもバレちゃうし。結局、家賃も生活費も仕送りばかり頼ってましたからダラシないんですけど。もちろん実家も貧乏でしたから、それほどでもない金額で、清貧な生活を続けましたが。しかもせっかく東京に来ても、ほとんど部屋にこもってまんが描いてるばかりで東京見物するワケでもなく特に仲間を求めることもなく、あんまり意味なかったみたいですが、様々な立身出世伝の読み過ぎで、とにかく東京ひとり暮らしで苦労するのが夢だったんですね。苦労を重ね都会の孤独を味わうほどに楽しい。
その年、ヤングジャンプが創刊され、いよいよ青年コミック新時代の夜明け。ぼくもこの波に乗り遅れまいと、ブラックユーモア・タッチの大人向けショートギャグを何編か描き、さっそくヤンジャン編集に持ち込みをしたりするが、まだまだ子供の絵の範囲を出ない稚拙な人物描写の上にいぬちゃんが登場してたりして、とても相手にされず挫折感を味わいました。続いて創刊されたヤングマガジン編集部でも、まだまだ子供じゃ話にならんと門前払いで、業界のキビしさを知る。 絵の未熟さは自分で知ってはいてもアイデアには多少の自信があったぼく、これは1回、字のみで勝負してみるべし、とSF雑誌にショートストーリーを投稿し始めました。コレは20編くらい書き、多少入選もしたりして満足感はおぼえましたが、やはりまんがでないと物足りない。そういうストーリーに文字だけではいぬちゃんをカラメられない、てことにもどかしさを感じてました。純文学雑誌の新人賞に応募したこともありましたけどね。
ある日実家から「ころが車にハネられて死んだ」と電話がありました。ビックリしましたが、もう悲しみにひたる気分でもないくらいに東京の生活に必死だったし、すでに気持ちの中では実物の犬よりも虚像としてのいぬちゃんの存在が上回っていたので、悲しくはなかった。そもそも広島での半生を切り離して上京してきたわけですから。小学校中学校の卒業アルバム卒業文集も捨ててきたし。だけど、その後何度も母親から「あんた、ころが死んだけゆうて自殺なんかしなさんな」と電話がかかってきたのには笑いました。安らかに眠れよ。
そうこうしてるうちに、広島を出るときに仕送りも18になるまで、と自分で決めてて、実家のほうでも母親が内蔵疾患で入院したり交通事故にあったり、父親がアルコール中毒で入院したり、結婚した姉が子供生んでわずか1年くらいで離婚しちゃったりと激動の時を迎えていたので、いつまでも甘えてはいられない。
しかし漫画家のアシスタントや東映のアニメーター募集に応募しても落ちちゃったし。18までには漫画に関係ある仕事で食べられるようにしようと思ってたんだけしょうがない。とりあえず高校は卒業してる、とウソをついてレストランなど点々としながらバイトを始めました。
バイトを続けながら、なんとかガンバって、いぬちゃんの10ページものを何本か描きあげたのですが、暗い青春を送ってきたせいか、やはりブラックユーモアものっぽくなってしまう。もうメジャー誌には望みはあるまい、と<ガロ>に投稿しました。コレが意外にも1発で入選して掲載されたので、すっかり気をよくして次々描いたものの、それっきり載せてもらえず、再び挫折感を味わう。
そのころ雑誌で、あの伝説の<小池一夫劇画村塾>の塾生募集広告を見て、小池一夫先生の作品などよく知らないのに「思い切って、こういうとこで勉強して、やはりメジャー感を身に付けるべき」などと考えてしまうのが、ぼくの軽薄さ。入学には多少お金かかるのですが、そのころはバイトでなんとか生活費だけは稼げていたので、少し親に甘えました。「今度こそキチンと勉強して一人前になる」と。 入学試験もいちおうあって「自分の日常を4ページのまんがに描いてくること」これで約2倍(らしい)競争を勝ち抜き、3期生として入学を許されたのですよ。そして入学の日、各塾生と小池先生の初めての個人面談。ぼくのまんがを見つめる先生。「会話のテンポはいいんだけど、この相棒はサエないなあ」と、絵の中でけんそーくんと会話するいぬちゃんを指さして言われた。
これで50%ヤル気なくしちゃったんですが、メゲずに通いました。住んでるアパートから自転車で行ける近さでしたからね。だけど興味がわかないんですよ、授業に。いや小池先生のお話しは面白く、いちいちゴモットモでタメになるハズなんですけど。現代の漫画雑誌文化を取り巻く状況、そこへ戦略的に売り出すには何をするべきか、大衆の心を掴むキャラクター論とは? たぶん企業の講演だとギャラ100万円取れるような内容の濃い話をタダで週2回も聴かせてくれてたのでしょう。でも、ぼくはそういうのじゃなくて、すぐに使える技術論、まんががウマクなるノウハウが知りたいだけだったのに。
しばらくしてマブタのウラに脂肪がたまってシコリのできる<さんりゅうしゅ>という病気になり右目が開かなくなりました。病院で、金具でマブタを裏返して引っ張る「時計仕掛けのオレンジ」に出てくるやつみたいなのをつけられ、直接メスを入れる痛〜い手術をして、一週間は眼帯がはずせない。しかも手術後に左目も同じ病気であることが判明。右が直ったら、すぐ左の手術。結局両目が完全に開くまで三週間もかかった。
1ヶ月ぶりくらいに劇画村塾に行くと「なんだ、コイツ」て感じに見られるんですよ。小池先生の話もますます佳境に入ってて熱っぽいんだけど、しばらく休んでたから、展開がわかりにくい。そのうちバイトの疲れでスーッと眠気が襲ってきた。気がついてフッと顔を上げると、ムッとした小池先生の顔が目の前にあるんですよ。コワかったなあ。怒られはしませんでしたけど。もうダメって雰囲気でしたね。たぶんイビキも大きかったんじゃないかと思います。周囲の塾生もアキレ顔でしたから。 結局、劇画村塾もそれっきり行かなくなって、なんとなく「まんがはもういいや」的な気分が広がってきたころから、音楽好きな気分が高じて、ライブハウスなどで知り合ったメンバーを集め、バンドを始めることになります。
それでも少しは絵に関係のある仕事を、ということで印刷屋のバイトにつく。こういうとこではガ然、ガンバっちゃって好評を得るのですが、上司から「君、漫画描けるんだろ。なんか描きなよ」とスーパーのチラシの仕事が回ってきて、さっそく商品イラストの横に小さく買い物袋を抱えたいぬちゃんを描いて提出したところ、スポンサーから、いぬちゃんのとこだけ赤ペンでバツが入った校正が戻ってきた。 バンドに役立つようにディスコのバイトに切り替えることにしました。住まいも下北沢に引越し、心機一転。しかもバンド活動はまんがに比べるとウソのように順調、けっこう人気者になれて驚きました。ですが、予定が詰まってくると逆にメンバーをまとめる作業が苦痛になってきて、ディスコのバイトも印刷に比べると全然ラクじゃない。かなり精神的にマイってしまったんで、いったんケツを割って田舎に帰ることにしました。
1ヶ月して東京に戻って初心に帰り、やはり音楽を続けながらも、まんがは描いていこう、と考え、バンドのチラシにいぬちゃんを登場させ、ライブで売るミニコミにもいぬちゃんのまんがをどんどん描いていった。 そのうち、バンドのメンバーが自主映画制作にもかかわっていた関係で映画にもかかわるようになったりして、なぜか俳優のマネゴトやタレントの卵をするようになっていった。
バイトは下北で古本屋やビデオレンタルの店で働くようになり、自分の出てる映画のビデオに自分で貸出中のフダを付けたりしていた。
そういうことで付き合いが広がるうち、いつの間に次々と編集者の方々に恵まれ、様々な雑誌に「仕事として」ついに、いぬちゃんを描かせてもらえる依頼をいただき、数多くの作品群が生まれました。
夢見ていたようなフツーの漫画雑誌での連載とはちょっと違ったけど、企画物ページへの登場も、マルチカルチャー・アイドルとしての、いぬちゃんの修業の場だ、とヤル気を起こしましたよ。夢中で描きました。読者からのお便りももらったり、人に会えば「いぬちゃん描いてる人?」なんて聞かれたり、サインを求められて、いぬちゃん描くようになったり。
「いぬちゃんのうた」を作ってバンドのソノシート付きでミニコミにインディーズで作った本もけっこう売れたし。<オンステージ>なども含め、一時は5誌、6誌に同時にいぬちゃんが載ってることもあり超売れっ子状態でしたが、逆にどこも「うちと独占契約でヨソには描かないように」とは言ってくれないのも寂しいといえば寂しい。でも「人から仕事何やってる?」と聞かれても「いちおうまんが家」とかずうずうしく答えたりして。ウレシかったな。
原稿料と、タレントとして少し名前が出てきたのでバイトしなくても食えるようになり、実家の方でも姉がお店を始めたり兄がゴルフで稼ぐようになり母の具合も良くなり父も定年で落ち着き、ぼくも胸を張って兄や姉の子供にミヤゲも買って田舎に帰れるようになりました。
その頃はまさか、いまほどいぬちゃんが有名になり(てほどじゃないけど)後に単行本にまとまることなんかも想像していなかったので「単行本とか出る見込もないまま、あれこれ時事ネタばかりの小さいコマまんがばかり描いててもしょうがないかな」と思いはじめ、長編いぬちゃんの構想をノートにまとめたりしますが、今度はタレント業やらバンドやらが、なんだか忙しくなりすぎて、まんがにもジックリとは取り組めない。
せめてキャラクター商品としてだけでも売り込めないものか、とテレビCMの仕事で知り合ったプロダクションに「サントリーのペンギンやカールおじさんみたくなれませんか」なんて話してみてみると「けっこうイケルんじゃないですか」なんて言われて、その気になって資料をドッサリ持ち込んだけど、その後はまるでナシのツブテであった。しかしゴマアザラシやかわうそくんでさえ商品化されてんのに。いぬちゃんじゃダメなのか?
新宿2丁目にガーデンという友達のやってる飲み屋があって、89年頃でしょうか、そこの壁を利用して個展を開いて世間にアピール。これでせめて普通の漫画雑誌に連載取れるといいな、なんか思ったんだけど、ムダな努力であった。 やっぱ古いんですよね。絵の感覚が。70年代の影響のままで止ってるから。それなりの良さはあるとはいえ。ハッキリいって、もう理解できないんですよ。今のコミックの感覚が。ジャンプを買っても両さんしか読まないし。相原コージから吉田戦車とか朝倉世界一とかいった人々が次々と現われて、もう「オレにはもうわからない」と白旗を上げることにしました。
それなりのいぬちゃんの成功にも充足感も味わえず、タレントとして仕事を着実にこなすわりに知名度も業界内でのポジションもそんな変わんないなあ、なんて妙に息詰まってた頃、ぼくは周囲の友人の影響でコンピュータに出会うんですね。
マッキントッシュを手にしてからは「コレはおれのためのマシン。いぬちゃんを描くためのマシンだー」と目前の霧がイッキに晴れていくような爽快感を味わえた。 マウスをコネくり回して出てくる無機的かつジャギーな線で現されたいぬちゃんは、20年目にしてもう一つの命を吹き込まれたかのように新鮮でありながら、最初から運命的にこうなることが決定したかのようにマックのディスプレイに似合っていたのだ。コペルニクス的転換。
これは新しいぞ。ニュー・ウエーブ・コミックの連中にも気後れすることなく肩を並べられる!
だって、いぬちゃんはデジタル・メディアのために生まれたキャラなんだもん。これからの作品は全部CD−ROMで発表する! なんつって。
まあ、内容はペンで描いてるとの、ちっとも変わらなくて、コンピューターグラフィックと呼ばれるものには、ほど遠いんですけどね。でも、スキャナもタブレットも使わず、オール・マウス・オペレーションでのまんがに挑戦しているのは、ぼくだけだ、というパイオニア的な自負もちょっと持ってます。とりあえずラクですし。あれ以来ほぼマックでしか描いてないですから。
91年には歌のほうで「若さ、ひとりじめ」というソロアルバムCDを作ったんですが(すでに廃盤ですが)ジャケットデザインから何から何までマックを使い、「いぬちゃんのうた」も収録。ライナーにもいぬちゃんまんががたっぷり。発売記念コンサートには1体が2メートルの巨大な描き割りが5体並んだ、どうぶつバンドをバックに従えて歌いまくり。ステージ上でDJがマックをオペレーションするのですが、用途はどうぶつたちの鳴き声のサウンドファイルの再生のみというゼイタクさ。 そして15年目の夏。93年5月には青山のギャラリーでついにマック4台を使ってのハイパーいぬちゃん個展までやりましたからね。次々とマック雑誌なんかでも連載をやり、使ったことないのにウインドウズ雑誌からも仕事がくるようになったし。6月には、いぬちゃんまんが満載の「マッキントシュ・スクラップ・ブック」(翔泳社)なんて単行本も(市川連さんと共作で)出した。(今は廃版になったけど)
94年からはCSテレビの音楽チャンネル<スペースシャワー>でやってたぼくの番組やテレビ東京でやってた高城剛の番組などでは、マックでひとりで作ったいぬちゃんアニメもオンエアされました。ほとんどパラパラアニメに近い2分くらいのモノばかりでしたが。そのデータをフロッピーに手作業でコピーしてマックエキスポの会場などでガンガン売りさばいたりしました。
2月には、とうとうペン描き物時代から今までのいぬちゃんをすべてまとめた作品集「いぬちゃん・1985〜1993」(ヤマハ音楽出版)も出ましたよ。コレはまだ絶版じゃないです。あんまり売れなかったけど。94年、いぬ年だったのになあ。まだ、いぬちゃんの魅力に気づかないか、一般の人たちは。 しかし、この95年、ついに念願の待望のCD−ROMのリリースとなりました。やったぜ。今度こそ、世間がいぬちゃんに追いつくときだ。そう、今までは、いぬちゃんがちょっとだけ世の中の1歩先を歩いてただけなのさ。もう半歩以上先にはいきませーん。
ホントは今後3D化されたいぬちゃんフル・デジタル・アニメ化されたいぬちゃん、などにも挑戦していくべきなんですけど、もうちょっと、楽しみはあとに取っといたほうがいいかな、なんて。どうせライフワークなんだし。時間はまだ一生ある。いつかはマック抱えて山にこもって、いぬちゃんだけに打ち込むことにするぞ。そのときは西岸良平先生の「三丁目の夕日」のような世界も、いぬちゃんで描いてみたいですけどね。
まーとりあえず、このCD−ROMが皆さんにご好評いただけば、もういくらでも続編、パート2からパート100まででも作りますよ。何十年かけても。いぬちゃんサーガ。そのころCD−ROMなんてメディアとして残ってるかどうか、わかりませんが。
とにかく21世紀を越えて、いぬちゃんの顔がアップルマークと並ぶくらい、マルチ・メディアのシンボルになる日まで、ソニックやマリオに負けないくらい世界中のキッズに愛される、その日まで、がんばるのだ。わんー。
最後まで読んでくれて、どうもありがとう。すいませーん。おつかれさまでしたー