Toyroメンバーのリレー・コラムです。ぜひ、お楽しみください!(代表・横川理彦)
朝のラッシュ時、渋谷から新宿三丁目という短い区間を、副都心線で移動することがある。電車は長く、新宿三丁目での移動を考慮し、可能な限り先頭寄りの車両に乗るようにしている。しかし、先頭の1両目は女性専用車両となっているため、乗れるのは2両目が限界だ。
ところが、渋谷駅の階段は、1両目と2両目の間に位置している。階段を降りると、2両目に乗るためにはUターンをするように少し戻らなければならない。その通路は狭く、人がギリギリすれ違える程度の幅しかない。ラッシュ時ともなると、我先にと歩こうとする人たちで殺気立ち、肩が当たることは日常茶飯事である。道を譲らない者もいて、皆が不機嫌な顔をしている。過去には、そこで喧嘩になっているのを二度ほど目撃したことがある。
ある朝、2両目へUターンしようにも、全く前に進めない状況になった。電車の発車音に急かされる。この電車を逃せば遅刻しかねない。そんな焦燥感から、やけくその気分で1両目に飛び乗ってしまった。そこは女性専用車。「間違って乗ったのです。急いで飛び乗ってから気づいたのです」というふうを装う。心の中で「申し訳ありません、次の駅で降りますから」と念じながら、その表情を決して見られないように、ドアにぴったりとくっつく。ガラガラの車内で、息を潜めるように立っている。
ようやく次の駅に着いた。これで2両目へと乗り換えられる。電車が止まりドアが開く。ホームに足を踏み出した瞬間、一人の男性とすれ違った。「あっ」と思ったが、急いで2両目へと乗り込む。
今頃、あの男性は気づかず間違えて女性専用車に乗ってしまい、気まずい思いをしているに違いない。声をかけてあげれば良かった、と混雑した2両目で思う。咄嗟のことで、迷う間もなくすれ違ってしまったのだ。ふと見回すと、乗り込んだ2両目の車内には女性の姿も見受けられる。「この女性たちが1両目の専用車に行ってくれれば、こっちはもっと快適になるのになあ」などと考えている。
改めて1両目に目をやるが、さっきの男性は見えない。「これ、女性用の車両ですよ」とその男性に声をかけるのが、本来は正解だったのだろう。しかし、見知らぬ人に声をかけるのは少々ハードルが高い。以前、ハンカチを落とした女性に声をかけたら、一瞬ビクッとされた経験がある。
声をかけるというのは、一種の責任感だ。気づいたから教えてあげる。教える責任がある。それは「間違ってますよ」という指摘だけではなく、「そのままだと困ることになりますよ」と、相手の未来を心配する感情を含んでいる。そして、ただ心配するだけでなく、もし何も伝えなければ自分が後悔するだろうという罪悪感も含まれている。
今年の夏は、暑さ対策を呼びかける注意喚起を毎日耳にした。テレビでもラジオでもネットでも。健康や命に関わる事態になってしまう人がいる以上、それは必要なことだろう。しかし、毎日言われると聞き飽きてしまい、「今日も暑いのか」とうんざりした気分が増幅されるだけだ。気象に関わる人、報道に関わる人は、責任感から注意喚起している。それは理解できる。少し先の未来のこの場所で気温が上がるのを知っているのだから、それを知らせるのが親切心であり、知らせる立場にいる人の責任感なのだろう。また、知らせなかったら罪悪感を感じてしまうだろう。
「エアコンを使って室内の温度調節をしましょう」「エアコンを付けるのを我慢しないようにしましょう」。10年ほど前には「ピーク時の電力使用量を抑えましょう」というアナウンスばかり聞いていたのに、時代は変化した。
台風が近づいているから備えよう。大雨で洪水になるかもしれないから、河川には近づかないようにしよう。地震が起こったから津波に気をつけよう。今後何年かのうちに地震が来るかもしれないから、日頃から防災意識を高めよう。あまりにも多い情報量に、それらの警告は薄まっていく。人々は慣れてしまう。
温暖化対策のためにCO2排出量を減らすのは確かに大切だ。それには科学的な根拠があって「世界史上最大の詐欺」ではない。しかし、地球規模のサイクルでの寒冷化と温暖化の影響がどれくらいあるのかは、1千年や1万年の単位で計らないと分からない。
小学生の頃は、学校の授業で石油が枯渇すると教わっていた。しかし今、枯渇していない。とは言っても、もちろん石油は大事に使わなければいけない。「ドリル、ベイビー、ドリル」などと言ってはいけない。
ゴミの処分場所は将来無くなってしまう、とも教わった。だからリサイクルしなさいと言われていた。だが、処分場は新たに作られ、無くなってはいない。
物をリサイクルすることも重要だ。「割り箸はやめて、マイ箸を持ち歩きましょう」という啓蒙活動をする歌手のドキュメンタリーの最後に、彼女が幸せそうにハイブランドの靴を買うシーンがあったのを思い出す。あれは編集者の悪意だったのか。それとも人間というものを俯瞰、達観した視点だったのか。
人間は間違える。そしてせいぜい100年ほどしか生きられない。つくづく、その場しのぎしかできない生き物なのだなあと思う。そうなると、人々はその時々の感情に従って行動するしかない。これまでもそうしてきたし、今もそうしているだけなのだ。
女性専用車両で気まずい思いをしたあの男性は、今頃はもうそんなこと忘れているだろう。あの時、責任感で声をかけて驚かせ、隣の車両に急いで一緒に駆け込んで、駅員に駆け込み乗車はやめてくださいとアナウンスで注意されるほうが、よっぽど気まずかったはずだ。あれでよかったんだと、自身に言い聞かせたりもする。
以上、読むのが面倒だなという方には、コチラ から要約を。右下に音声解説があります。(ニュアンスが違うところもあるけど。)
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ちなみに、責任感・罪悪感つながりで言うとコチラがおすすめ。